トミソー 70年の歩み
トミソーは1951年に富山で創業。70年以上の歴史を持つトミソーがなぜ生まれたのか。
どんな思いをもって行動してきたのか。歩みの軌跡を紐解きます。
原 点
トミソーの原点は、ものづくりの力で街を元気にしたいその想いから。
終戦後街を復興させるため家具販売からはじめた小さな店舗は、
少しづつ実績を重ね、総合内装装飾業の第一人者へ。
家具造りで
故郷の復興を
- 家具工場で家具造り
を
5年間学ぶ - 創業者である島田一三は、海兵団員として第二次世界大戦に参加していた。終戦し富山にもどった一三は、空襲で焼け野原となった故郷の姿を目の当たりにし、自分自身の手で復興の後押しをするために、もの造りの仕事に携わっていくことを決意。おじが役員を務めていた堀川製作所の家具工場に5年間勤務し家具造りを学ぶ。
夫婦ではじめた
小さな家具販売店
- 夫は、リヤカーで家具
を運び
妻は、店先でカ
ーテンをつくる - 一三は富山市堀川小泉の自宅で、家具販売店「島田商店」をスタート。既存の家具を売ると同時に、店先にはミシンを置き、結婚したばかりの妻・みのるがカーテンなどの製造にいそしんだ。当時一三は自動車免許をもっておらず、リヤカーに家具を乗せて商品の納入をしていた。
総合内装装飾業の
第一人者へ
- 「島田商店」は
「富山装飾株式会社」へ - 業務の拡大に伴い、事務所兼作業所を新設。一階表の事務所を借り受けてカーテン、カーペットなどを販売する。さらに、奥の部分は買い取って作業所とし、2階には居住スペースを設けた。その後業務の拡大に伴い「富山装飾株式会社」を設立。社名は、総合装飾業を行う企業がまだ少なかった富山において、自社が第一人者であるという気構えが現れたものであった。それから、富山装飾株式会社(現:トミソー)は、内装工事の請け負いで着々と業績をのばしていく。
のちに発展への
架け橋となる
佐藤工業株式会
社との出会い
- 富山国体、選手受け入れ
の
ための宿探しに奔走 - 1958年は、富山国体が開催された年。市内に十分な数の宿がなかったため県外から訪れる選手を少人数にわけ、民家などに泊めることとなっていた。当時、町内会長を引き受けていた島田社長は近隣の民家や企業を回り、宿泊受け入れの交渉に奔走した。受け入れをかけ合った企業のなかに佐藤工業株式会社があり、これをきっかけに仕事を請け負うようになっていく。
改 名
店舗で火災が発生するなど不運に見舞われながらも、
家族で協力しつつ成長をつづける。
富山から他県へと躍進を続けるトミソーが向かう先とは。
不運にみまわれた
総曲輪の店舗
- 片腕には金庫、
もう一方
には娘を抱き抱え走る - 1962年総曲輪の店舗で火災が発生した。ショーウィンドーの上部の照明の漏電によるもので、展示されていた布類と店舗・居住スペースの一部が燃えたが幸い怪我人はいなかった。火事発生時、島田社長は片腕に金庫、もう一方の腕に次女を抱え、長女を伴って避難した。
富山から他県へ
さらなる成長のために
- 株式会社トミソーに
社名を変更 - 1963年ごろ富山装飾は富山県から石川県へ営業活動を広げようと奮闘。しかし名刺に「富山」という文字があるというだけで、排他的な感情から相手にしてもらえないことも少なくなかった。そうした経緯もあり、富山装飾は社名を「株式会社トミソー」に変更。当時カタカナの社名は先進的であり、洗練されたイメージを獲得することに成功した。
職人の技術を富
山の地に
「トミ
ソー学校」
- 大阪や神戸へ
職人を見習
いとして送る - 総合的な内装工事を多く請け負うようになったトミソーは、専門的な作業をおこなう職人の不足に頭を抱えていた。そこで、トミソーは大阪や神戸へ職人を見習いにやり、技術を吸収させる取り組みを行う。その後、1963年には「有限会社トミソー装備」を設立。職人を育て、技術を持った社員を富山の地へ根付かせる役割を担った同社はのちに「トミソー学校」と呼ばれた。
発 展
積み重ねてきた技術にあまんじることなく、
挑戦をつづけるトミソーは、本社の場所を変え次の挑戦へ。
経営を見直し、不動産事業など未来に向けた取り組みをスタートさせます。
現在のトミソー
本社ビルが完成
- 内装工事を請け負いつつ
一階では家具の販売を行う - 1973年トミソーは経営の合理化に伴い、太郎丸西町2丁目四の九へ事務所を移転し現在のトミソー本社ビルが完成した。移転当初は一階に事務所と店舗を設け、家具・カーテン・カーペットを販売していた。
収益の新しい柱を
不動産事業を開始
- 初の宅地分譲を成功
させる - かねてから不動産投資に関心を持っていた島田社長の意向により、トミソーでは早い時期から不動産事業を開始した。島田社長は仕事を通して知り合った不動産業者から情報を得ることでリスクの少ない物件を購入して着実に事業を拡大していった。その後、富山市秋吉に7区画の宅地造成に挑戦。土地はすぐに完売した。
変 革
バブルが崩壊し、ゼネコンからの下請け工事が減少する中、
トミソーでは元請けとして行う、住宅事業への転換が図られた。
現代表である「木村嘉秀」も入社し、もう一度羽ばたくための基盤を構築する。
「芸術監督の家」が
中部建築賞を受賞
住宅新築
リフォーム事業
を開始
- 初となる専門の営業
社員を配置 - 2002年本社1階に住宅部門を設置。専門の営業社員も配置し、住宅新築・リフォーム事業を本格的に開始した。完成見学会の開催や広告戦略なども自社で行い販路を広げていった。
初のモデルハウス
新・民家オープン
店舗設計事業を
開始
- 木村嘉秀がトミソー
に入社。
店舗設計事
業を牽引する - 初代島田社長の孫にあたる木村嘉秀がトミソーへ入社した。名古屋・金沢で店舗デザインの仕事に従事していた嘉秀は、トミソーでも店舗設計事業を積極的に展開し、少しづつ実績を積んで行った。
ベストショップコンテスト
グランプリ受賞
LA MAISON DE JUN
- 着実な取り組みが実を結
び
高い評価を受ける - 2012年に[LA MAISON DE JUN]の店舗が景観広告とやま賞・景観広告大賞、ベストショップコンテスト・グランプリに輝くなど高い評価を受ける。また、住宅部門とも協力し、店舗併用住宅の受注数も伸ばしていった。
祖父から孫へ
受け継がれる
トミソーの意思
- 木村嘉秀が
専務取締役に就任 - 新規事業展開も徐々にではあるが進んでいた2009年、当時起きたリーマンショックの影響により、トミソーの売り上げは落ち込み、トミソーでは社内体制の見直しが行われた。その結果木村嘉秀が専務取締役に就任し、営業全般の指示をとることになった。
新卒採用を開始
- 「全就活生に幸あれ」
学生の未来を
本気で考える - 「全就活生に幸あれ」をスローガンに、新卒採用を開始。スーツを着て、企業に合わせた話をする。そういった就職活動に問いを投げかけ、学生一人ひとりと本音で語りあう採用活動を行う。
設立70周年CI改定
- 一人ひとりに
輝く人生の舞台をつくる - 設立70周年のタイミングで、CI(コーポレートアイデンティティ)を改定。形は内側と外側をすべて八角形(末広がり)で構成され、それぞれの頂点は会社・社会・お客様・取引会社・社員・社員家族・求職者・同志企業を意味する。この8つが繋がり支え協力し合うことでつくられる輝く人生の舞台を表現している。
未来へ
トミソーに関わる全ての人々に輝く未来を届けるために、
そして、富山をさらに輝かせるために。
トミソーは、みなさまのお力をお借りしながら、これから更に邁進していきます。